玉川上水は最高


始めに

俺たちの家の近くには玉川上水が流れています。この水路は五日市街道沿いに流れている水路というイメージしかかつてはなかったのですが、何故か気になる存在でした。
いつかは、この上水路の近くに住みたいと思っていましたが、ひょんな事から現在住んでいます。
そして、なんと幸せな事に、玉川上水沿いの遊歩道を休日に散策しています。
歴史的な事どもについて詳細に知りたい、実際に見てみたいと思っている俺たちとしては、まづは玉川上水を歩きました。
遊歩道の第一印象としては、ケヤキやコナラなどの広葉樹が多いなと思いました。
「桜堤」という地名や「名勝小金井桜」などという石碑などがあるので、春は桜ですごいのかなと思っていたら、実際はさほどでもありません。国立駅の南の桜並木の方がすごいね。

気になるけど、良く分からない存在の玉川上水を知るには、本を読むしかないと思い、本屋に行くも売っていません。ならば、図書館ならあるだろうと行くとありましたよ。
「玉川上水を歩く」「玉川上水と分水」「玉川上水 水と緑と人間の賛歌」の3冊を借りました。

この3冊を読み、ますます「玉川上水」が好きになった俺たちなのです。
ということで、この「今日の俺たちU」を「はじめに」として、玉川上水のページを開設します。



@玉川上水との出会い

玉川上水と俺たちの最初の出会いは、バイクで奥多摩湖に行った帰りに、ひょんな事から五日市街道を走った時に偶然でくわしたのです。その時に「玉川上水」の看板を目にし、「玉川上水って、小学館の小6かなんかで、確かその物語を読んだけど本当に実在したんだ」と軽く思いつつも、ずっと続いているその用水路は何かひっかかるものがありました。

それから早いもので20年経過しました。関東人だった俺たちもその間、名古屋や大阪で生活していましたが、2年前やっと東京へ転勤することとなりました。

さて、どこに住もうかと迷っている時に、ふと学生の時に見たあの玉川上水を思い出しました。「土日などに玉川上水の散策路をWalkingできたら素敵だろうな」という思いがふつふつと湧き出し、選定基準をJR中央線の北側、東小金井・武蔵小金井あたりをメインに探すこととしました。結果としては、現地視察後、熟慮の末、武蔵境となりました。

A玉川上水の概要

玉川上水は、急速に人口が増える江戸の街の水不足を解消する為に1653年(承応2年)4月より開削開始、同年11月には開削工事完了という脅威的な速さで工事が進められました。工事を担当したのが「庄右衛門・清衛門」の玉川兄弟で、幕府の金で工事は進められた。区間はというと、現在の羽村市にある「羽村取水堰」から四谷四丁目交差点近くにあった「四谷大木戸」の約43kmです。

当初の目的は江戸への給水でしたが、その後沢山の分水が作られ、武蔵野台地の開拓用の水として使用されました。その結果、玉川上水の水の用途は江戸への給水が50%、分水への給水が50%となったようです。

また、上水のほとんどが武蔵野台地の尾根の一番高い所を流れているのです。

現在の玉川上水は「羽村取水堰」から西武線「玉川上水駅」近くの「小平監視所」までの約11kmが現役の上水として活躍しています。ここから、上水管で東村山浄水場へ送られています。「小平監視所」から先の玉川上水は昭和40年に「淀橋上水場」が廃止された関係で空堀となっていました。その後「東京都の清流復活事業」により、昭和61年に高度浄化された下水が「小平監視所」より下流に流され、玉川上水の清流が復活し現在に至ります。

B考察

上記概略で不思議に思う点があります。

1.何故、7ヶ月という短期間で43kmもの人造水路が完成できたのか。
何故なら、羽村取水口から、四谷大木戸の間の高低差が100mしかなく、且つ武蔵野台地の尾根筋を伝って用水が流されているのです。
どうみても事前の綿密な下調べなくしては不可能でしょう。
下調べだけで1年くらいかかるのではないでしょうか。

2.「武蔵野台地の尾根筋を伝って用水が流されている」には訳があり、上水の左右に武蔵野台地開拓の為の用水路がたくさん作られていることから、事前の計画で江戸への給水だけでなく武蔵野台地への給水が計画されていたのではないでしょうか。

3.何故、幕府の金でこの大工事を行ったか

4代将軍 家綱の頃ですからまだ将軍家の力は大きかった頃でしょう。お手伝い普請で各大名にこの工事をやらせてもよかったんじゃないですか。
それを7000両以上の金を使って、何で?
玉川兄弟も、足りない資金は私財を投げ打ってまでして金を作り、工事を完成したと言われています。
今もそうだけど「利権」が絡んでいるんでしょうかね。

事実、玉川兄弟は玉川上水の水量を監視する番人を命ぜられます。この水番人役は一見、玉川上水の水量を監視し水門を開け閉めする地味な役回りに見えます。しかしながら、ちょっとすると、玉川上水を武蔵野台地の灌漑用水として使用するために分水が数多くできますが、その分水を引くのに幕府の許可がもちろん必要であり、その便宜を図るのがこの水番人役だったのです。
早期に、より多い水量を確保するために、この水番人役に賄賂金が流れたことでしょう。
その影響か、恐らく誰かにちくられて3代目玉川庄右門は水番人役を罷免され、かつ玉川姓まで取り上げられてしまったらしいのです。

4.俺たちの玉川上水に対する仮説

以上の事を総合し、俺たちの玉川上水に対する仮説ができました。
玉川上水は決して7ヶ月の短期間で完成したのではなく、その計画は用途(江戸への給水・武蔵野台地の開拓用の水)も含めて綿密に計画されていたものなのではないでしょうか。
恐らくその計画は「玉川兄弟」によるもので、彼らは幕府にそのメリットを訴え裁可されたのではないでしょうか。
素晴らしい計画はあっても実行するとなると、そう簡単には行きません。
そこでにおうのが、野火止用水を完成させた川越藩主「松平伊豆守信綱」です。
野火止用水は1655年(玉川上水完成後の2年後)に現在の玉川上水小平監視所(西武線玉川上水駅近く)から埼玉県志木市の新河岸川に至る25kmをこれまた僅か40日間で完成された用水路です。
40日間という短期間で完成させたなんて一見カッコイイけど他の分水に先駆けてこの長大な用水ができたということは、玉川上水の掘削工事と野火止用水は何がしかの関係があるんじゃないの?

ここで持ち上がる説が、玉川兄弟と松平伊豆守信綱が協業して玉川上水を完成させたのではないかという事です。
例えば、羽村〜小平監視所の11kmを松平伊豆守信綱が担当、小平監視所〜四谷大木戸の32kmを玉川兄弟が担当し工事を進行。
松平伊豆守信綱は担当の工事区間を完成後は、野火止用水の25kmの水路計画を綿密に実施しある程度は工事に着手していたのでは?
玉川上水の完成後は大きな功労者として、いの一番に分水の権利を得て大急ぎ(40日間)で用意していた水路と玉川上水間の工事を実施したんじゃないでしょうか。

まあ、こんな事を考えながら「玉川上水」沿いの遊歩道を歩くのもおつなものですよ。
それでは、次回からは実踏の紀行文となります。写真も掲載する予定ですのでお楽しみに!!