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京都駅から徒歩で東寺に向かうと、ご覧の「慶賀門」が出迎えてくれます。 |
「慶賀門」から入らずに南下しますと「東大門(不開門)」に到着します。
ここは、足利尊氏が東寺に陣を置き新田義貞軍と戦った時に、この門を閉じて防戦したそうです。
それ以来この門は不開門となったそうです。 |
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これが東寺の南大門です。
他の寺はこの南大門が門の中では中心で、参拝者はここから入場します。
しかし、東寺の場合は違います。都の一番南端に建立された関係で、南大門の外は都の外だったのです。
当然、都の外から参拝に来る人よりも都の中の人が参拝する人が多いわけで、しかも都の人がわざわざ都から一度外に出て南大門から入場しないよね。
北側の門から普通入るよ。
今回だって東寺の北側から南大門へ行く人は俺たちだけだったよ。増して、寺を一周しているやつは将に俺たちだけじゃないの。
南大門と言えば、「金剛力士像」でしょう。
ここにもあるかなーっと覗きに行ったら、スペースはありましたが像は残念ながら無かったね。
鎌倉時代にはあったらしいから、是非製作をお願いします。 |
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蓮花門は、住み慣れた東寺を去り高野山へ向かう空海が東寺を出る時に使用した門です。
伝説としては、空海が住んでいた西院の念持仏であった不動明王がこの門まで、空海をお見送りに来たとか、空海の足跡に蓮の花が咲いたとかあるようです。
さて、平安京鎮護の官寺であった教王護国寺東寺は嵯峨天皇が空海に賜った寺です。
空海は、それ以降この寺を真言密教の根本道場にすべく心血を注ぎます。
ところで、空海は偉いという評判ですが、東寺に来る前は空海よりも最澄の方が偉いと俺たちは思っていました。
何故なら空海は、確かにこの東寺や高野山金剛峰寺を建立し、真言密教を広めた事で有名で更に空海により掘り当てられた温泉が日本にはあまたあるなど、スーパースターなのに対し最澄は、比叡山延暦寺の開祖であることくらいしか知られていない、パットしない奴だけど、その比叡山に学んだ弟子から日本の宗教界で超有名な人が何人も輩出しているので、天才=空海 人を育てる秀才=最澄だと思い、人を育てる最澄の方が偉いかなと思っていたのです。
でも、どうもちょっと違ったようです。追々そこの所はお話しましょう。
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北総門は都の内側ですので、都の人々は通常はここから東寺へ参拝していたことでしょうね。
ここの門の撮影した頃は13時を過ぎていましたので、洛南中高校生の下校時間となり、沢山の生徒がこの門をくぐって下校していました。
このような歴史的建造物及び歴史的スピリットが存在する所で学ぶ彼らは正直うらやましいと思いました。京大・東大・早・慶・関・関・同・立 等に進学し日本を支えて下さい。 |
東寺のメインの建物である手前から、金堂、講堂、食堂(じきどう)です。
元々、東寺は平安京を鎮護する寺として西寺とともに建立された寺であり、今でこそ京都には寺がいっぱいありますが、その当時は「東寺」と「西寺」の2つしかありませんでした。
その当時とはもちろん794年の平安京創建の頃です。
この頃は、阿弥陀如来が招く「極楽浄土」は信仰されておらず、薬師如来が招く「瑠璃浄土」が信仰されていたようです。ですから、東寺の本尊は最初は薬師如来だったのです。
そして、最初に建立された金堂には薬師如来が祀られています。
823年、嵯峨天皇は空海にこの東寺を賜れました。(理由は不明)
それ以来、この東寺は空海により真言密教の根本道場として、その形を整えて行きます。
その真言密教の世界である曼荼羅を立体的に表現した世界がこの講堂にあります。
ところで、空海ってすごいんだぜ。なんたって、空海は真言密教の第八世の正統な伝承者なのです。
それは、中国の(当時は唐の時代)青龍寺が真言密教の寺であり、そこの第七世伝承者である恵果和尚より真言密教の全ての灌頂を受けた人は空海だけだからです。
最澄と空海は歴史の教科書には必ず登場して、天台宗 真言宗をそれぞれ広めた教祖として有名ですが、どのような活動をしたかは良くわかりませんでした。
教科書上では、「最澄は比叡山延暦寺を建立し天台宗を広め、空海は高野山金剛峰寺を建立し真言宗を広めた。」くらいでしょ。
東寺の「と」の字もないから、大学を卒業しても東寺ってどんな寺か俺たちは知らなかったよ。(自称、日本史は滅茶苦茶得意な俺たち) |
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