今更、人に聞けない俺たちの日本語講座

当事者意識 その1(2002.6.19)

俺たちの会社のお偉さんとの懇談会が先日あり参加しました。諸々の事が話題に上がりましたが、そのお偉さんが主張した事で心に強く残ったのがこの「当時者意識」を持て!という言葉でした。
「サラリーマンのページ」に載せても良い内容なのですが、発案者が「俺たち」でなく「お偉さん」なので、俺たち内で消化しきるまで、そこには掲載しません。

それでは、「当事者意識」を解説しましょう。

会社は組織で動いており、大きくなればなる程、分業化が進みます。順調な時は特に問題になりませんが、不調な時に、その不調原因を他責として自らの責任と考えない人が多いのがこの世の中です。

例としては、この製品が売れないのは、営業から言わせれば「競合と比較して悪い製品だから売れない」と言うし、開発から言わせれば「予算も時間も制約されて、やっと作った製品なので、自分らとしてはベストを尽くした。売れないのは営業が悪い」と自分を守る考え方しかしない。
これじゃいかん!!と言うのが「当事者意識を持て!」ということです。

それぞれの立場の人が、立場を超越して「どうしたら売れるか」を考える事ができる組織になるべきで、それができてこそ初めて勝ち残れる企業になるんじゃないでしょうか。



世の中、当事者意識で変わる(2002.8)


企業は、仕事を分業してこなしています。
分業すると言うことは、分業することによるリスクと分業しないことのリスクを勘案して分業した方がメリットがあると言う合理的な結論がでたからそうしているのだと思います。
しかしながら、現実は違います。
分業することによるデメリットがかなりめだっているのです。
分業の当初は、分業する事によって生じる「分業の隙間」を埋めるのは当然と考え対処しているのですが、担当者が変わる内に当初の理念は薄れて行き、隙間だらけの状況になってしまいます・
そのような状況になっているのが、若い企業を除く一般的な企業だと思うのです。

この状況を放っておくと、間違いなく企業力は落ちます。
こんな状況を打破するのが「当事者意識」だと俺たちは切実に思っているのです。(続く)



学校の休み(2002.6.11)

長い夏休み、土日休み、ちょっと長い冬休み、何故かある春休みと休みばっかしです。
しかもこのシーズンの休みは、エアコンが普及していなかったかつての慣習を引き継いでいるすぎません。現在は、学校にもエアコンが付いている所が多いので暑さ・寒さが厳しい季節でも通常に授業ができます。(もし、エアコン等の設備がない学校があったら国の予算を使ってでも即導入すべきです。)
OA化の一環としてPC環境を整えるためにエアコンを導入するのは当たり前ですから。


小・中・高・大と16年間もどっぷりとシーズンの休みに漬かった学生が社会に入り戸惑うのは当然です。
義務教育じゃない高校・大学は勝手にやって戴ければ良いが、小・中の義務教育は勝手にやられちゃ困りますねー。
少なくとも、社会に通用する教育をして戴かなくては。先生方がもし社会情勢に疎いのであれば、我々、サラリーマンが有償で教育のサポートをさせて戴きましょう。偽善的なボランティアなんかに頼っちゃいけないぜ。これは国策なんだから、ちゃんと国の予算を割り当ててやらにゃあかん。


土曜日の休日化で教育レベルの低下が叫ばれていますがとんでもない。土曜休みが増えたのだから、教員諸君よ、従来の休みであるシーズン休暇を減らすのは当たり前じゃないですか。
週休2日でもし学力の低下が発生するなら、それを補う為に、夏休み等で塾みたいに補講をすべきなんです。
なんか、東京の高校の先生は夏休み中も半ドンで出勤するように今年からなるそうですね。
いい事じゃないですか!!
一部のアホ教師はいつものように反対しとるが、その反対理由が笑っちまうよ。
「生徒のいない学校に教員を縛り付けて余裕を無くし,本当に不祥事がなくなってよい教育ができると,どこかの偉いさんは考えているのだろうか。」とか「ボーナスは企業の半分〜3分の1。夏も休めないのでは教員になった意味がない。しかし、生徒もいない学校で何するんだろう?」

あー。悲しすぎる。いつものように自分の権利しか主張しとらん。生徒のことなど2の次。
自分で考えんかい!! 押し付けられると反対するくせに自主的に動こうとしない。へどがでます。



「狭き門」「少数激戦」(2002.3.31)

この言葉は有名なので皆さんご存知かと思いますが、念のために書きます。
この言葉は、受験産業(塾や予備校)が作った都合の良い言葉です。
受験者数が多い時は「狭き門」となるし、受験者数が少ない時は「少数激戦」となります。

しかしながら、俺たちは思っています。一定レベル以上の学校であれば、受験者数の大小は関係ないんじゃないのと。
「サラリーマン化」の欄でも申し上げましたが 「2 6 2の法則」がこの受験の世界でも適用されます。
優秀な2割の奴は問題なく何時の世の中でも合格します。出来の悪い2割は不合格です。
問題なのはまん中の6割に所属する人です。特にその中でも合否の境目〜ボーダーライン〜の人がこの言葉に惑わされます。

ですから、俺たちは主張します。
ちょっと乱暴かもしれませんが、大学受験で、例えば、早稲田にストレート現役で受かる奴は2割、間違いなく落ちるのが2割、問題なのが、残りの6割です。
この6割の中の上位2割に残れば早稲田に受かります。
つまり、定員1000人の所に10,000人受験者が集まり、倍率が10倍と仮定した場合、上位の2,000人が合格し、6割の2割(6,000x0.2=1,200人)も合格するというロジックです。
定員1,000人で3,200人も合格するのはおかしいと思われるかもしれませんが、受験者が併願していることを鑑みますといい数字だということが経験則上わかります。

ですから、実質倍率は約3.3倍なのです。
この3.3倍というのは、良い数字でどこの大学でもレベルは異なるものの、大体実質倍率は3.3倍くらいです。

では、倍率が100倍だったらどうかと言えば、恐らく実質倍率はこの3.3倍という数字になってしまうんじゃないかと思うのです。
この件は別途、検証する必要があると思います。




「サラリーマン化」(2002.3.26)

さっきTVで生意気な女性評論家が言っていた。教育問題かなんかを評論していたが、結論が「教員がサラリーマン化しているので、現状の問題が発生している」とのことです。

それではここで言う「サラリーマン」の意味する所は何なんだろうね。

一般的には、下記の考えを持ったサラリーマンを指す言葉として使われているようです。

1.与えられた仕事を与えられた時間までやればそれでよい。
2.プロ意識を欠いており無責任である。
3.仕事は苦痛である 仕事で得た給料で仕事以外の時間を楽しむところに生きがいがある。

このような典型的に「悪いサラリーマン」のイメージはいつ生まれて日本人の常識として一般化されたのでしょう。
俺たちが思うに、1960年台の高度経済成長期に流行した植木等氏の「スーダラ節」とか、同氏主演の映画「無責任シリーズ」によって日本の「サラリーマン」像が作られたのではないでしょうか。
しかし、この手の時代を風刺する映画は実像でなく、夢・希望をベースとした虚像なのです。
この虚像が実像として語られているのが現状なのではないでしょうか。

こんな事は、身の回りをちょっと見れば分かります。
大東亜戦争では、米軍による爆撃及び2度の原爆投下により、各都市は壊滅的な打撃を受け、大日本帝国は壊滅しました。この敗戦の復興に日本国民はどれだけの血と汗と涙を流したことでしょう。
その主たる担い手は「サラリーマン」だったんじゃないですか?
俺たちも1980年代の初め頃に社会人としてデビューしたが、この「悪いサラリーマン」はあまり見かけないんですけどね。
「2 6 2の法則」というのがあります。会社を構成している従業員を区別すると、優秀な人材は2割、可も無く不可も無い平均的な人材が6割、はっきり言って役に立たない人材が2割いるという法則です。
これはサラリーマンに限らず、公務員、教員などでも恐らく通用する法則であると思います。(いかがでしょう皆さん)

結論としては、何処の世界でも存在する「役に立たない2割の人材」をつかまえて、サラリーマンの代表的な存在であるという事は間違っている。従って、「サラリーマン化」という事実を表していない言葉は死語にすべきです。
冒頭の「生意気な女性評論家」がおっしゃるように「教員が(悪い)サラリーマン化している」なら、新語を作るべきなのです。

そう「サラリーマン化」でなく「教員化」しているってね。

次回は「狭き門」「少数激戦」です。お楽しみに!!



 

「イデオロギー」
(2002.3.17)


戦後の学校教育は、「反戦・平等」を基軸として実施されてきましたが、最近どうもその弊害が目立ってきました。
「いじめ」「先生をナメている生徒」「私語でざわついている授業」などなど・・・。
何故このような事態が生じているんでしょうか。
一言で言ってしまえば、世の中極端ではいけないということです。
「反戦・平等」は悪いことではないけど、絶対的な真理かといえば必ずしもそうじゃない。
反対に「好戦・不平等」が絶対的な悪かといえば必ずしもそうじゃない。
テロに対しては戦争を起こしてでも対抗する事は世界の常識となっていますし、個人に能力差があるのに一律に評価してしまう事は誤っているからです。
多面的に物事を見る事が重要であるのにも関わらず、イデオロギーを押し付けちゃいけないぜ。

やっとでてきました「イデオロギー」 
「イデオロギー」とはGoogleで検索すると次のように定義されています。

「イデオロギーとは、社会構造的に生み出された虚偽の意識であり、かつその虚偽の意識の形成がひとつの権力手段として、特定の政治支配と結びつき、被支配者の側の服従を確保するために用いられるものなのである。」

ふむふむ、「誤った思想を民衆に押し付ける事がイデオロギー」なんですな。
「誤った思想=イデオロギー」と思っていたので「多面的に物事を見る事が重要であるのにも関わらず、イデオロギーを押し付けちゃいけないぜ。」と書いたのですが、この文章自体ががイデオロギーの定義になっちゃってるじゃないですか。

書き直しますと「「反戦・平等」はイデオロギーであり、多面的に物事を見る目を養う事が重要です。」