季刊誌 横濱 2012年秋号 Vol38 10/5 神奈川新聞社発行 

  Julieが横浜林市長との対談で歌に対する思いと横浜についての思いを語ってくれました。
歌手、俳優として活躍する沢田研二さんは25年前から中区にお住いの横浜市民。
林文子市長との対談は山手で家探しの話から始まった。(文中敬略称)
(林) 沢田さんは25年前から横浜にお住まいですが、横浜とはどのようなご縁があったのですか。
(J) 若い頃、横浜出身のゴールデン・カップスの演奏を聴きに来たり、よく横浜に来ていました。コンサートやテレビ番組への出演、横浜スタジアムでのコンサートなど、仕事でも横浜へ来ることが多かったんです。でも横浜に住みたいと思ったのは、カップスのリーダーのデイヴ平尾さん(故人)に「横浜はいいところだよ」と言われていたし・・・・・。
最初は滝の上のマンションでした。それで、一軒家を探すことにしました。
(林) 今は山手にお住まいですが、最初から山手に家を探していらしたんですか。
(J) 山手は古くからある高級住宅地ですから、とても手がでないと思っていて、それで、新聞のチラシで見た鎌倉の雪の下にある家を見せてもらいに不動屋さんに 行ったら、「本当はどこに住みたいんですか」って聞かれた。 で、山手に住みたいと言ったら紹介されたのが今の家です。
なんと言っても景色がいいんです。大晦日は港の船の汽笛も、風の向きによっては中華街の爆竹の音も聞こえるし、八景島の花火も見えます。引っ越す気持ちはありませんね。
(林) いい場所に出会いましたね。
(J) 最初は地図を見ても行きつけなくて同じ場所を何度もうろうろ(笑)。
あのあたりは車が通りぬけできなかったりして、分かりにくいですからね。
(林) 横浜の住み心地はいかがですか。
(J) まず、交通の便がいいことが一番ですね。
東京で仕事をしていても、高速道路を使えばすぐに帰れます。地方に行くときも、羽田空港まで道が空いていれば20分くらいだし、新幹線も新横浜の駅が近い。住んでいるひとの気質も東京の人と全然違って、ちょっと人懐っこい(笑)。あまり特別扱いされないので、楽にさせてもらっています。でも忙しくてしばらく行かないと「引っ越ししたのかと思った」なんて言われてしまう(笑)。
(林) 私は沢田さんと2歳違いですが、私の青春時代のいろいろなシーンには、いつも沢田さんの歌がありました。歌には人を励まし、支える力があります。
歌を聴くと、その歌が流れていた頃の自分の感情まで思い出すことができます。
だから、歌のない人生はあり得ないと思っています。
今年1月に日本武道館で開催されたコンサートのDVD拝見しましたが、沢田さんのような大スターと同時代を生きてきたことが実感できて、うれしくなりました。
私も頑張って来たけれど、沢田さんもすごいな、ちっとも変わらずに光っていらっしゃると思いました。

来年のヨコハマ・アート・フェスティバルの音楽イベントにはぜひ沢田研二さんにも出演していただきたいですね。
(J) それは光栄です。
(林) 沢田さんはデビューなさってから毎年コンサートをなさって、ご自身で作詞作曲もなさっています。沢田さんを突き動かしている原動力は何ですか?
(J) 難しいですね。鶏が先か、卵が先か、という話になりますが、
僕の歌を聴いてくれるひとがいるから頑張れるんだと思います。

タイガースでデビューして、あっという間に人気がでました。
当時はレコードが売れていれば全てが順調に回る時代でした。
でも、どんなスーパースターでもいつかは売れなくなる。
この世界でやっていくにはどうしたらいいかと常に考えていました。
そんなときに沢田研二はただ歌っているのではなく、演じている歌手だから演技もできると言ってくれる人に出会ったんです。それで1975年に「時の過ぎゆくままに」を歌っていた頃に、唐十郎さん作、蜷川幸雄さん演出の舞台「滝の白糸」に出演したんです。
(林) 歌手ジュリーの全盛期ですよね。
 (J)  これが大変な舞台で、もう二度と舞台はやらない!と思いました。
そのときは(笑)。
(林)  演技は歌に良い影響を与えるものですか。
(J) お芝居をしているとコンサートをやりたくなるし、コンサートだけをしていると無性に芝居をしたくなる。そんな関係ですね。
でも何が一番好きと言われたら、やっぱりコンサートですね。
コンサートというのは実にはっきりしているんです。つまらなかったらお客さんはつぎのコンサートに来てくれません。
だから、コンサートでは見に来てくれた人を驚かせたいし、喜ばせたい。それが最低限、僕らにできるサービスというか、お客さんに対する礼儀だと思います。
(林) 同じ時代を生きたフアンのひとりとしては、還暦を迎えた沢田さんの今を見たいし聴きたいです。そして、そこに共感のできるものをみつけたときはうれしいですね。先日、沢田さんがご自身のことを語った「我が名はジュリー」を読ませていただきました。人気絶頂期に独立してから、自分の身に合わないと思いながら歌っていたとありましたね。
(J) あの時代はとても迷っていました。当時はテレビに出ることしか人気を保てないと思っていました。出た方がいいと、周りからもそう言われていましたし。
でもどんなに努力をしても売れなくなった自分はテレビに出られない。
若い人に合わせて無理をしてテレビに出なくても、本来はコンサートが本業のはすなどといろいろ考えていました。
倒れるまでコンサートを続ける覚悟はできています。
(林) やっぱり生で、目の前で歌ってくださる力に勝るものはありません。
その意味では沢田さんが積極的に地方公演をこなしていらっしゃるのはフアンとして嬉しいことです。最近は1年にどのくらいコンサートをなさっていらっしゃいまか。
(J)  コンサートは1年で40本くらいでしょうか。
あとは2001年から毎年上演している、歌と芝居が融合した音楽劇という舞台を30日くらいしています。
(林) 私は常々横浜は文化、芸術の都市になりうると思っています。
そのために若い芸術家や音楽家の活動を支援したり、発表の場を提供したいと考えています。
「3つのヨコハマ・アート・フェスティバル」として、今年はダンスのイベント「ダンス・ダンス・ダンス@YOKOHAMA2012」を開催しました。そして来年は音楽が主役です。
ぜひ、沢田さんの音楽劇も参加していただきたいですね。
(J) それは面白そうですね。
(林) これからも今のスタンスで活躍をされていく予定ですか。
(J) 今は音楽をやめるための準備をしているようなものです(笑)。
コンサートは倒れるまでやるつもりで、その覚悟はできています。
これからもCD制作、音楽劇とコンサート、そのリハーサルという流れで活動を続けていこうと思っています。あとは、やはり売れた経験があるので、もう一度、自分が好きだと思える歌を歌って、売れたいという気持ちもあります。
(林) 最後にこれからの横浜に何か提言があればお聞かせいただけますか。
(J) 横濱にはいい場所がたくさんあります。若い人たちはみなとみらいの方に行きますが、僕は関内や本牧、野毛、三溪園が好きです。
だから大勢の人に来てもらうためにどうすればいいのかではなく、「自信を持って生き残れ!」って感じですね(笑)。胸を張って待っていればいいんだと思います。
横浜を知ればその良さは必ず伝わるはずですから。
(林)  力強いお言葉をありがとうございます。。これからのご活躍を期待しています。
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